盛田昭夫と交流の深かった方々からの
熱いメッセージ
盛田昭夫と交流の深かった方々からの熱いメッセージを紹介します
vol.3
“青春の詩” と盛田昭夫氏
サミュエル・ウルマン記念館の想い出
粟倉健二氏より (追悼文 No. 1)
今、どれほど多くの方々がこの詩をご存じだろうか。
近年日本で、最も多く引用された文章と言われるこの詩を読み返す度に、小生には盛田昭夫氏に関する忘れがたい思いが蘇ります。
サミュエル・ウルマンが書いたこの“青春の詩”は、敗戦後の日本を世界第2位の経済大国に押し上げた産業人達が、常に財布に入れ胸に抱いて歩いたと言われています。日本を代表する経営者と呼ばれる盛田昭夫さんも、この詩を胸にソニーを、そして日本を、世界のトップ・リーダーに押し上げようと奔走されたと聞いています。この詩と盛田氏にまつわるエピソードを、ここにお伝えしたいと思います。
サミュエル・ウルマンが書いたこの“青春の詩”は、敗戦後の日本を世界第2位の経済大国に押し上げた産業人達が、常に財布に入れ胸に抱いて歩いたと言われています。日本を代表する経営者と呼ばれる盛田昭夫さんも、この詩を胸にソニーを、そして日本を、世界のトップ・リーダーに押し上げようと奔走されたと聞いています。この詩と盛田氏にまつわるエピソードを、ここにお伝えしたいと思います。
約15年前の1993年7月7日。「“青春”をうたった米の詩人ウルマンの記念館建設に、日本の経済人が協力」。新聞は「サミュエル・ウルマン記念館設立募金運動」の成功と、その米国への贈呈式について報道した。この贈呈式を報じた同じ紙面では、来日中の眉をいからせた米国クリントン大統領の写真が「日米は最悪の関係にある」ことを浮き上がらせていた。各紙は「日米経済戦争」の最中に、際立った日米親善のシンボルがここにあるというように、このイベントを取り上げたのです。
朝日新聞 1993年7月7日記事
前日、20名のマスコミ関係者も参加して、東京のホテルで開催されたこの「日本側募金をアラバマ日米協会に贈る式典」には、州立アラバマ大学副総長、マルコム・ポルテラ博士が米国側代表として来日。
日本側を代表して、盛田昭夫経団連副会長が宇野収関西経済連合会会長と共にスピーチされました。この状況は直ちにアメリカ側でもマスコミ等を通じて報道されます。
当時は、両氏が日米親善貢献者に贈られるサミュエル・ウルマン賞受賞歴をお持ち(盛田昭夫氏=第1回、宇野収氏=第3回)だと知る人は多くなく、しかし一方では、お二人の国際親善への貢献は余りにも知れ渡っていた状況でした。
(「サミュエル・ウルマン賞」は、現在も毎年春に開催されるアラバマ日米協会年次総会ディナー等で、日米多くの要人出席の下、アラバマ日米協会により贈呈式が行われています。)
日本側を代表して、盛田昭夫経団連副会長が宇野収関西経済連合会会長と共にスピーチされました。この状況は直ちにアメリカ側でもマスコミ等を通じて報道されます。
当時は、両氏が日米親善貢献者に贈られるサミュエル・ウルマン賞受賞歴をお持ち(盛田昭夫氏=第1回、宇野収氏=第3回)だと知る人は多くなく、しかし一方では、お二人の国際親善への貢献は余りにも知れ渡っていた状況でした。
(「サミュエル・ウルマン賞」は、現在も毎年春に開催されるアラバマ日米協会年次総会ディナー等で、日米多くの要人出席の下、アラバマ日米協会により贈呈式が行われています。)
これより先1992年夏、サミュエル・ウルマンが“青春の詩”を書いた自宅はまさに売り払われ、取り壊されようとしていました。当時アラバマ州現地で事業経営に携わっていた小生は、時のオーナーから「この家を買い取って助けてほしい」と頼まれたのです。私は、たまたまこの少し前にアラバマ日米協会(通称JASA)の役を、盛田氏の教え子である、アラバマ州ソニー・マグネティックプロダクト・カンパニー川島社長、中鉢副社長から引き継いだばかりだったので、当案件を同協会のプロジェクトとして自身で担当する事を決意し、米国側と日本側ルートを通じて折半募金を依頼しました。
サミュエル・ウルマン
宇野収氏(東洋紡(株)名誉会長・「青春という名の詩」共著者)、松下正治氏(松下電器産業(株)会長)、盛田昭夫氏(ソニー(株)会長)、宮澤次郎氏(トッパン・ムーア(株)前会長・「青春の会会長」・「感動の詩賦『青春』」著者)、作山宗久氏(千代田化工建設(株)審議役・「青春という名の詩」共著者)(募金贈呈目録順)の方々に発起人となって頂き、プロジェクトは大成功。バブル不況中だったにもかかわらず、1年間を想定していた計画の募金活動は、たった2ヶ月余で2,800万円の目標を達成できたのです。それは、盛田氏をはじめとする経済人中心に、“青春の詩”に勇気と活力を得て活動されていた多くの人々が、ポケットマネーを拠出された結果でした。
イメージ提供:アラバマ日米協会
“青春の詩”は、まさに「人生の応援歌」なのです。そしてこの詩文は近年でも「企業経営者が愛好する言葉ベスト5」に常に登場することでも知られています(日本経営協会調査、朝日新聞記事等)。
全国の募金は盛田氏が会長をされていた経団連CBCC((社)海外事業活動関連協議会)に集められて米国に送られ、米国側での同額の募金と合わせて家の買い取りが実現したのです。そしてウルマンの家は取壊しを免れただけでなく、1994年3月に記念館としてオープンされ、今日に至っています。
最後に、関係者だけが知るエピソードをここに一つご紹介したいと思います。この贈呈式の最中に、一人の新聞記者から「盛田さん、そろそろ、訪日中の米国クリントン大統領と日本経済界のイベントが始まるようですが・・?」と声をかけられた盛田さんは即答一番、「この(サミュエル・ウルマン記念館設立募金贈呈)式典は、我々国を超え良きコーポレートシティズンとしてビジネスをする者には大変重要なイベントです。」と応じられ、贈呈式を無事終了された後、来日中の大統領とのイベントに参加されたと、当時のアラバマ州政府日本事務所代表 荻氏から伺いました。真の意味での「日米の架け橋とは?」また「サミュエル・ウルマンの“青春の詩”の伝える真髄とは?」を改めて盛田氏より学んだ思いがします。
アラバマ州・バーミングハム市には、サミュエル・ウルマン記念館が現存。日米親善のシンボルであるとともに、近年世界27カ国の人々が来訪した名所、米国の新文化財となっています。
全国の募金は盛田氏が会長をされていた経団連CBCC((社)海外事業活動関連協議会)に集められて米国に送られ、米国側での同額の募金と合わせて家の買い取りが実現したのです。そしてウルマンの家は取壊しを免れただけでなく、1994年3月に記念館としてオープンされ、今日に至っています。
最後に、関係者だけが知るエピソードをここに一つご紹介したいと思います。この贈呈式の最中に、一人の新聞記者から「盛田さん、そろそろ、訪日中の米国クリントン大統領と日本経済界のイベントが始まるようですが・・?」と声をかけられた盛田さんは即答一番、「この(サミュエル・ウルマン記念館設立募金贈呈)式典は、我々国を超え良きコーポレートシティズンとしてビジネスをする者には大変重要なイベントです。」と応じられ、贈呈式を無事終了された後、来日中の大統領とのイベントに参加されたと、当時のアラバマ州政府日本事務所代表 荻氏から伺いました。真の意味での「日米の架け橋とは?」また「サミュエル・ウルマンの“青春の詩”の伝える真髄とは?」を改めて盛田氏より学んだ思いがします。
アラバマ州・バーミングハム市には、サミュエル・ウルマン記念館が現存。日米親善のシンボルであるとともに、近年世界27カ国の人々が来訪した名所、米国の新文化財となっています。
サミュエル・ウルマン記念館
2008年5月 寄稿 粟倉健二
1993年米国アラバマ日米協会副会長
元JVC America Inc. 代表取締役副社長・社長代行
※なお文中の方々のタイトルは、1993年当時のものを使用させて頂きました。
※文中の朝日新聞記事および目録は朝日新聞社及びJASA等に無断での転載、使用が禁じられています。
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