妻・良子が語る
人間「盛田昭夫」の素顔
妻・良子が昭夫と共に過ごした日々や想い出の写真秘話を語ります
vol.4
三木鶏郎さんと昭夫
三木鶏郎さんと昭夫の出会いについては詳しくわかりませんが、当時、東京通信工業(現ソニー)は、NHKからの仕事がとても多くありました。当時放送局はNHKだけで、東通工は、放送局用機器、当時作り始めた録音機等を納めていました。
三木さんは、戦後早々活躍しておられた作詞家、作曲家でしたので、恐らくNHKを通して昭夫と知り合うきっかけになったのではと思います。
その頃、東通工は、立体録音再生装置を開発し、昭夫たちは、自社製の録音機を使い、鉄橋を渡る蒸気機関車の音や船の汽笛など、考えられる限りの効果音をあちこちで録ってきておりました。
NHKはラジオ第1と第2放送があり、その2チャンネルを使って、立体(ステレオ)放送を流そうというアイディアが、東通工から起こり、1947年12月、日本初の立体(ステレオ)放送の実験を行い、大成功を納めました。録音・再生機には、もちろん東通工製のステレオ試作テープとレコーダーを使用しました。
時には、昭夫と親交のある世界の要人の来日に合わせて開かれ、メンバーはこの特別ゲストから他国の新しい情報を聞き出し話し合ったと聞いている。
その頃、東通工は、立体録音再生装置を開発し、昭夫たちは、自社製の録音機を使い、鉄橋を渡る蒸気機関車の音や船の汽笛など、考えられる限りの効果音をあちこちで録ってきておりました。
NHKはラジオ第1と第2放送があり、その2チャンネルを使って、立体(ステレオ)放送を流そうというアイディアが、東通工から起こり、1947年12月、日本初の立体(ステレオ)放送の実験を行い、大成功を納めました。録音・再生機には、もちろん東通工製のステレオ試作テープとレコーダーを使用しました。
時には、昭夫と親交のある世界の要人の来日に合わせて開かれ、メンバーはこの特別ゲストから他国の新しい情報を聞き出し話し合ったと聞いている。
試聴者には、ラジオを2つ用意していただき、右に第1放送、左に第2放送をセットしていただく、というとても原始的な方法ではありましたが、当時、これがとても臨場感にあふれ、試験放送後は大変な反響があったようです。1953年6月、NHKでは立体放送の定期放送「これがステレオだ」がスタートしました。
ステレオ初録音の様子(1953年)
(NHK第1スタジオにて)
この間、本格的なテープレコーダーの普及を狙い、ポータブルレコーダーが世に出始めていたのですが、三木さんもこのレコーダーをお持ちになっていまいした。ある時、それを持って私共の箱根の別荘においでになり、知らない間に、長男の英夫(当時2歳)の話す「パパ、パパ」などの声を録音し、それをディズニー映画「バンビ」の日本語制作版(1957年公開)のバンビの赤ちゃん役の声に使われたと後で伺いました。
三木さんとは、そんな昔の懐かしい想い出もございます。
2009年 3月24日 盛田良子 記
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三木鶏郎(みき とりろう)(1914〜1994)
昭和前期から平成前期まで活躍していた作詞・作曲家。戦後、焼け跡の歌「南の風が消えちゃった」をつくり、1946年、NHKラジオ『歌の新聞』に出演。翌1947年、その後番組である『日曜娯楽版』の「冗談音楽」で爆発的な人気を博す。音楽のほか、脚本、構成、演出も担当。1951年、日本で初めてコマーシャルソングをつくり、ディズニーアニメの初の日本語版音楽監督を務めた。